古い過去帳では、現在の若林区連坊小路 保壽寺四世勝山秀逸大和尚 慶長7年9月26日滅(1602年)が 開山。堀江伊勢 正保4年6月3日滅(1647年)その妻、慶安2年3月5日滅(1649年)が開基。
過去帳歴住和尚 |
過去帳開基 |
古書物などでは、開山時期が天正元年(1573年)天正7年(1579年)慶安3年(1650年)とある。 安永風土記では正保4年(1647年)仙台藩主堀江の先祖 堀江三郎兵衛と記録があるが、火災・無住の経緯もあり、定かではない。伝えられた話では、七郷村での飢饉で多くの子供たちが亡くなり子安地蔵尊を開眼し供養したのが始まりだとも伝えられている。
当時は別當として、弘法大師が書いた六字名号石碑・聖徳太子(現在の七郷六丁目コミュニティセンター)
春日大明神(中町1丁目に奉納されていたが、現在は荒井 七郷神社に奉納されている)
過去帳の記録から、八世仙猛天榮時代に書かれた物と思われる。
戦後、無住であった当院に、本寺 保壽寺三十三世 太陽漢三大和尚の三男、弘覚三雄大和尚が当院十三世とし昭和23年9月5日に入山。当時は檀家28軒で民家も少なく、当院より裏は国道45号線まで田園で山門下には小川が流れており、炊事洗濯等は川の水を利用していた。
当時の本堂は、大間八畳・内陣六畳・位牌堂四畳、東脇間八畳が玄関と客間・室中より奥八畳が住職の寝室、その脇十畳ほどが台所として使用していた。西脇八畳は檀家の控室兼法要席・室中より奥八畳が長男夫婦、(十四世)の寝室。その脇十畳ほどの部屋に孫(十五世)の部屋があり、風呂・東司は離れで古びた本堂兼住居であった。当然生活は成り行かず、住職は仙台市市役所に勤め、長男夫婦は仙台市農協協同組合関係に勤め生活を送った。
古い時代は湿地帯で、土地を田園にした地域。地盤の弱い地域であった為に被害の大きさは甚大であった。
当院も全壊で住める状態ではなく、三雄和尚が境内地に末息子にと建てた空き家(八畳二間・台所)があり、そこで長男夫婦家族が生活をする。住職は伊在の空き家になっていた民家を借り生活をおくった。
本堂新築の会議など設けるが、前本堂と同じように住居を兼ねた40坪ほどの建物にするべきとの意見に長男夫婦が、庫裏は我が方で建築するとの強い意志を表し、本堂・庫裏・墓石区画整理の計画が本格的になる。
28軒の檀家ではとうてい財源が難しく、檀家寄付以外に檀家分家に墓地永代料を取得してもらうなどするが仏像・仏具の費用もあり、かなり厳しいものがあった。昭和55年12月に住宅金融会社のローンを組み庫裏が完成する。56年3月には本堂が完成する。
その後、年数を掛け本堂・庫裏とも一部増築する。
平成10年8月には道路迎えの一般住宅を買い上げ、通夜会館・会食場として禅草堂とする。
十五世大海洋之和尚が経験した宮城県沖地震(当時中学3年生)よりも、はるかに甚大であった。
学区内の中学校に設置してあった地震計では震度7を計測し、津波は到達しなかったものの本堂の壁・屋根瓦は落ち基礎もずれ、仏像・仏具類の被害は甚大。墓地に至っては原型をとどめた物は1割も無かった。庫裏は増築した部分が離れ、生活する上での備品の9割が破損するなど、インフラが途絶え生活の面でも厳しい環境が続く。四月七日の余震にて壊滅的状況に至る。
本堂・庫裏は基礎からずれ、床全体が波打っている状態。角柱も縦に亀裂が入るなど手の施しようが無かった。
洋之和尚も左肩を骨折し入院。余震の続く中、被害の少なかった禅草堂に移り生活を始める。
行政の視察の下、本堂・庫裏は全壊で当年十二月から解体作業に入る。禅草堂駐車場に仮本堂と納骨堂としてプレハブを設置し、布教道場の再開とした。
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