東日本大震災 爪痕

自宅に居た14時46分、大きな揺れが・・・・・。

1978年当時中学生であった私が経験した宮城沖地震、そんなものではなかった。
15分ほど揺れたろうか?  3度ほど大きな揺れが続き、家の中の物は倒れどうにもならない。
揺れが収まり、長男を呼ぶ。怪我は無いようだ。家の中から外に出るまで20分ほど。壁は落ち、散乱している。外に出ると墓石がほぼ倒れてどうにもならない・・・・・。

本堂内

位牌堂

庫 裏

庫 裏

墓 地

動物塚の首が折れた地蔵様

十三仏塔

首の折れた慈母観音

夕方の寒空、雪も降り始めてくる・・・・・。
それでも片付けなければと、長男と汗しながら物をどけていく。
嫁と長女が車で帰ってくるが、信号は止まり大渋滞だと。

そんな中、ラジオを聴いていると「津波が若林区区役所に到着した」と。寺より内陸だぞ!
外を見たが、雪で濡れており来たのか来ないのか?  ただ必死だった・・・・・。
電気・ガスが止まった状態で今後どうする・・・・。

食事はどうする?  炭がある・カセットコンロ・ローソクがある。
お寺だから、食料も何とかなる、乾麺・米、檀家さんからの頂きものだ、感謝。
宮城沖地震では1週間ほど電気が止まっていたが、今回はもっと長くなりそうだ。

墓地

墓地

墓地

墓地

壁は隙間だらけ、星が見えるほど。まず、片付けをしなければ・・・・・
毎日近くの産業道路では、パトカー・救急車・自衛隊の車、空ではヘリコプターが爆音をあげ北に向かって行く、夜になると仙台港の空が真っ赤、コンビナートが燃えている。

次の日から石屋さんに頼んで、お墓の復旧に、学校の通学路でもあるので危険だ。
竿石がお墓の隣の道路の中央まで飛んでいたのだ。
そんな中、墓石が心配、お寺が心配と毎日のように檀家さんが来る。
その中で、津波の話が・・・信じられない話ばかりで、生きている事に感謝しなければ。

道路脇まで人力で動かした墓石

境内の電柱が揺れて出来た溝

ガソリンも手に入らず、石屋さんも苦戦。長期に及んだ復旧だった。
檀家さんも3名ほど津波で亡くし、心労でのお年寄りの死亡、ガソリンが無い中、会館・火葬場にお経をあげに行く。必死だった。
そんな中10日も過ぎたころ、携帯の呼び出し音が!諦めていたのに繋がった。
県外の先輩方が「お前生きていたか〜良かった〜」と。
本山の仲間が、ガソリンを持って来てくれた、県外の先輩がカセットコンロを送ってくれた。
感謝だ!なんとか10数日が過ぎ電気も繋がった!避難所の方から明かりが点き始めまだ来ないのか、まだ来ないかのかと、待ち続けた光だった。
都市ガスも1か月以上かかり、復旧した。片付けもなんとか終わり、檀家さんの位牌も何とか元に近い状態までにした。

本堂も庫裏も基礎からやられている、どうやって復旧させるか、問題だ。

墓地

墓地

墓地

墓地

4月7日深夜23時50分頃にゴゴゴゴゴゴゴっと言う地鳴りが・・・
布団から飛び起き、家具を抑えたのだが頭の上から飛び跳ねて降りかかって来た・・・すごい衝撃で悶えこむ自分、左肩が痛む。
停電はしなかったものの、各部屋を見回していくと本震より酷い状況だ。
サッシの窓は外に飛び出し、戸締りもできない・・・・・せっかく片付けたのにと、怒りしか出なかった・・・。
家族が心配して救急車を呼ぶが、歩けるなら自分で何とかして下さいと、断られてしまう始末。激痛だが、自分でどんな状態かも分からない。

天蓋の飾りの部分が全部落ちた

壁が落ち屋根裏が見える

本堂の屋根も崩壊

飛び出したサッシのドア

縦割れした本堂の柱

庫裏の中

次の朝、仏具店の社長が心配し駆けつける。「住職ダメだ!脱臼はしている! 長引けば、治らなくなるから」
病院を訪ね、先生曰く、「脱臼どころではないはず、レントゲン設備のあるところを紹介する」と。
ここである事を諦めた、実は岩手県で若い奥さんと0歳の子供さんが津波で亡くなり奥さんの葬儀の予定だったのだ。通夜は昨日終わり、送ってやろうと思っていたが・・・。
渋々、本家寺である副住職さんに頼んで代行してもらう事に。

若林区にある病院に、自分で受付やら、待ち時間やらの中で痛みと格闘。
主治医の話では、左上腕部分の簡単に言うと関節の腕の部分の丸いところが3か所ほどに割れてしまっていた、即入院!しかし寺が心配だ、直ぐ入院はできません。

墓地

墓地

墓地

墓地

墓地

墓地

薬のせいでだんだんと痛みもなくなり、片手ではあるが何とかできる!
修復した墓石が、また崩れている、竿石が今度は2つも道路に飛び出している。
庫裏の床はベコベコに歪み、建物自体斜めになっている。
本堂の基礎も壁も屋根もどうしようもない状態だ。
業者に電話し、もうここには住めない、道路向かいの一般住宅を改装した会食場に住む!

手術3日前に病院に戻り入院生活、手術を終え気が付いたのは、何時間後だったか。
肩の痛みが酷く、眠っては目が覚め、眠っては目が覚める。手術前よりも痛みが激しい。
24時間後、一般病棟に移るまで2〜3日ほどの時間を感じた。

それからは毎日リハビリの毎日、痛みと闘いながら。
2週間後、10針も縫った肩の抜糸。「先生退院は何時できますかね?」
困っていた様子だが、「抜糸したら退院は出来ますよ」と。
寺も心配、抜糸した日に、即座に退院した。寺でもリハビリの毎日であった。

肩の骨を繋ぎ合せていた4センチのボルト

余談(住職 大海洋之代)

1978年6月12日17時14分に起きた宮城沖地震。
当時中学生で、中体連の最中だった、大きな揺れを感じ大騒ぎだった市内の中にいた自分、寺に帰ると、古ぼけた小さな寺が崩れかけていた。
まさか自分の目で2回も本堂を建て直す事を見るとは、夢にも思わなかった・・・・・。

岩手・宮城内陸地震でも本堂の土壁が落ち、近年の宮城県沖地震でも本堂の土壁が落ち今回の東日本大震災ではどうにもならなかった・・・・・。
地盤が弱い地域、学区の中学校の地震計では、震度7に成っていたそうだ。
現在の本堂は、昔、小川と畑・田んぼの所で、より一層地盤が弱かった。
それでも、前向きに生きないと頑張る事は出来ないが、一歩一歩前進しないと。

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